アヒルと鴨のコインロッカー

アヒルと鴨のコインロッカー [DVD]

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うわぁ。
なんか、いろんなものがかみ合って、切なさというか甘酸っぱさというか、言語にしがたい感情を作っている感じ。


あらすじを言うのなら。
「引越ししたばかりの大学生に、隣人の男がとある計画を持ちかける。それは、本屋を襲撃して広辞苑を奪うというもの。恋人を失い引きこもってしまったブータン人に広辞苑を贈るというのだ。強引に巻き込まれながら、実行に荷担してしまう。無事、計画は成功したかに見えたが、男が持ってきたのは広辞苑でなく広辞林だった――」
という、冒頭。
この部分だけで、かなりツボにくるものがあります。
本屋を襲撃して広辞苑を奪うって!
以前、物書き仲間数名で、各自役割分担してひとつの話をこさえよう、という計画が持ち上がり、俺も誘われました。俺の役割は、アイディア担当。それを他の人がこねくりまわして、整えて、文章にしよう、という感じ。
まあ、その計画そのものはあれこれあって結局うやむやになってしまったんですが、その中で俺が提案した物語の方向性が、「ハンパ者たちが集まって、何かでかいことをしでかす話。でかいことと言っても、世間から見れば毒にも薬にもならない、何の意味もない出来事だけど、彼らからしたらば大きな意味があること」みたいな感じだったんですね。
この「本屋を襲って広辞苑を奪う」というのに、何か似たようなものを感じました。多分、俺がやりたかったのはそういうこと。
襲うっていっても、ままごとみたいな計画で、成功するようにも見えない程度のものなんですよね。「実はシャレなんじゃない?」というレベルの。
まあ、結局は成功するんですが、しかしそれが広辞林だった! という間のぬけっぷり。


実際は俺の思い描いていたような方向にはいかなかったんですが。
この襲撃自体は、作品の中では特にどこにもつながることはないですし。改めて広辞苑を狙うとか、そういうことはない。もちろん、のちのちこの本屋襲撃エピソードにも重要な意味が出てくるのですが。


なんだかんだでラストシーン。
詳しくはネタバレなのでいえませんが、ボブ・ディランの「風に吹かれて」をエンドレスに再生したラジカセを駅のコインロッカーに閉じ込める、というシーンがあります。
なんというか、こういうひどくロマンチックないたずら――ある種の「儀式」みたいなのが、ものすごくツボなのですが。
想像して御覧なさいな。
いつも通る駅。いつも通るロッカーの前。いつものように何気なく過ぎ去ろうとしたら、どこからかボブ・ディランの歌声が聞こえる? どうやらそれはロッカーの中からで、鍵がしまっているんですよ?
一体、誰が、何のために、こんなことをしているのか?
想像ふくらみます。


そして、そこに至るまでの物語です。