作家に限ったことではないけど、プロ(玄人)と素人をわけるものはなんだろう、と『13歳のはローワーク』を読んだときから考えています。
知識? 技術? 意識?
そのどれもがそうでしょう。
いきなり「きみ、明日からジャンボ機のパイロットやってね」と言われても、どだい無理な話。専門の知識を勉強して、数々の試験をパスしないと、動かすことだってできないでしょう。たくさんの命を預かっているという意識がかけらもないパイロットの飛行機なんて乗りたくないし。
でも、すべての職種がそれほどまでの水準を求められるかっていうとそうでもなく、アルバイトで補えるくらいの業務なら、素人ができることも多いです。
だれだって、トッポが正しくラインを流れているかを見守る作業は、とりあえずはできる。
けれど、そこにはその道の人とは決定的な違いがあります。
トッポが正しくラインを流れているかを見守る作業だって、素人と玄人の違いは出てきます。
玄人なら、機械にトッポが詰まったらすばやく的確に処理できるし、トッポにもし異常があってもより発見できるでしょう。
それは知識とも技術とも意識とも違うのではないか。もっと曖昧とした概念――例えば、勘と呼ばれるものではないか。
素人と玄人を分けるのは、勘ではないか。
そう思うわけです。


勘を、無意識レベルにまで昇華した感覚や行動、と説明できると思います。
例えば合気道の稽古とかは、「意識して行う体さばきを無意識に落としこみ、緊急時には自然と体が動くようにする」こと、つまり技を勘で出せるようにすることだと思ってます。だから「次は〇〇という技を出そう」と思ってやるのは一番最初だけで、求められるのは、その状況によって自然と最適の技が出るようになることなのです。


それを勘だと思えば、人間というのはほとんど勘で動いているようなものです。
例えば歩くこと。だいたいの人は普通にできるこの行動を、計算によってしか動けないロボットにやらせてみようとしても難しいというのは知っての通りです。それは、勘をプログラムすることの難しさを現しています。
いちいち意識していたらろくに歩けないのです。


玄人と素人の話に戻ると。
職人なんかはわかりやすいですね。寿司職人は米の一粒まで正確に握ることができるといいます。何も手に秤を埋め込んでるわけでもないのに、経験という裏づけによって支えられた勘でそれを可能としているのです。
だから、作家もそうなんだと思います。
以前友人に、俺がモノ書きとして、数年前と明確に成長したのかということを言われました。
それはただひとつ。
長編が小説っぽく書けるようになったこと。


これが、勘じゃないかなぁ、という気がします。
コンセプトだ構成だ演出だという数々の技術も、すべてひっくるめて勘。とりあえず知識として技術があっても仕方ないので、反復練習して勘の部分まで落としこみましょう、と。
まあ、考えてみれば当たり前の話をつらつらと書いていてます。
「うーん、受賞後のインタビューで『作家を目指す人たちに人たちへのアドバイスはありますか?』と聞かれたら『勘を養うことですね』とか言ってみよう」と、かなりイタくて無駄なことを考えていたからですが(笑)。
でも、みんなあるよね。きっとあるよね? まあ、とらぬ狸のなんとやらなんだけどさ。考えるだけ、むしろ成功から遠のくってのはわかってるけど。
でもわかっていてもやめられないことってあるでしょ!


……はぁ。
とりあえず、文庫サイズの普通の小説を一気に読むこととかして長編の尺を染みこませてみます。何気と途中で息を抜くことが多かったしなぁ。