カミの楽園



 彼女は絵の中へと消えてしまった。
 彼女は彼の幼馴染で、親友で、かけがえのない存在だった。世界であり、神であったともいえた。
 神というのは比喩でなく、実際に彼女は、あらゆるモノを生み出すことができた。
 彼女がスケッチブックに、生み出そうと思って描くだけで、絵が実際に現れるのだ。
 彼は、だからかもしれない、と思った。
 出会ってから一年後、彼女は紙の中へと消えた。
 それから十年。
 少年は青年になってしまったが、彼女は紙の中で今も笑いつづけていた。


          一章


 夢を見た気がする。
 やたらに気の重い夢だったことしか覚えていない。だが、透には大体わかった。心当たりなんて、伊都のことしかない。
 布団から起き上がる。枕もとのタバコの箱を手に取るが、中身は切れていた。
「――っそ」
 口の中が粘ついてうまく言葉が出なかった。暑い。網戸ごしに空を見ると、バカみたいに空が澄んでいた。まぶしさに目を細める。そのまま目を閉じても、セミの大合唱が現実逃避を許さなかった。
 今日も真夏日らしい。
 おまけにタバコは切れている。ライフラインの整備さえ最低ラインギリギリのこの村で、タバコなんて嗜好品が手に入れられるのは川向こうの商店しかない。徒歩にして片道十分。日差しで人を殺すには十分すぎる距離だ。
 顔を洗うついでに水をがぶ飲みする。のどの渇きは少しだけ引いたが、いがらっぽい別の渇きは強くなった気がする。
 吸いたい。
 法的に許されるようになってから吸い始めたから、タバコとの付き合いもそろそろ三年になる。金ばかり使わせて一利もなし。しかし、ないと死にそうになる。まるで悪い女のようだ。悪い女となんか付き合ったことないけど。
「くそ」
 今度はちゃんと毒づいて、透は小銭をポケットに入れて炎天下の中を歩き始めた。
 田んぼのあぜ道を進んで、川の向こうに行けば田舎のオアシス『仲根商店』がある。田舎の雑貨屋らしく駄菓子から肥料までだいたいのものは揃っていた。おまけに消費税ゼロパーセントの心意気。たまに品切れのまま一週間ばかりほったらかされるが、その辺はご愛嬌。
 昔は伊都とよく、いわゆる子供のイタズラを敢行したものだ。ヒントは、店番は耳の遠いばあさんひとりで、それも気まぐれに店を空けること。子供にとっちゃ、商品棚の十円ガムなんて、その辺の畑に生えているトマトみたいなものだった。
 懐かしい思い出だ。今やったらさすがにシャレにならないが。
「――はっ」
 我に返る。
 懐かしい記憶が、ちょっと白昼夢めいていた。やばい、このままだとさすがに危ない。手でひさしを作って空をにらむ。一刻も早くこのあぜ道を抜けないと、干からびてたんぼの肥料になってしまう。
 そう思って橋の上に目を向けたとき。
 幻覚が見えた。
 高校生くらいの少女が橋の欄干の上に座っていた。シャツにジーンズというラフな格好。背中まできれいに伸びた黒髪が川を下る風にさらされていた。
 まるで現実にいるかのように、はっきりと見えてしまっている。こんなくそ田舎に旅行者なんかくるはずがない。かといって村人でもその親戚でもない。狭い集落だ、村人全員の家族構成はおろか、誕生日まで知り尽くしている。幻覚を見るとは、いよいよ命が危ないかもしれない。
 さらに近づくと、彼女が何かを持っていることに気づく。
 スケッチブックと鉛筆。
 透の汗が止まった。
 少女は一心不乱に、スケッチブックへと何かを描きこんでいる。
 そこにはただたんぼが広がる以外は何もない。だがその目は、凡庸な景色すべてを吸い込もうとするかのように真剣だった。
 いつの間にか、透は彼女の真後ろにたどり着いていた。彼女は気づかない。ただならぬ集中力だ。しかも汗ひとつかいているように見えない。
 その肩越しに、透はスケッチブックを覗き込んだ。
「――う」
 恐ろしくうまかった。
 鉛筆一本のデッサン画のはずだ。しかし黒の明暗だけで、風景に色がついて見える。稲の葉は青々と茂り、たんぼの水は真夏の日を弾いて白く輝いている。
 一瞬、絵の中の稲穂が風で動いた気がした。すぐに光の具合による錯覚だと思い直すが、同時に、動き出しても不思議でないという思いに駆られた。手を伸ばせば、その中に入り込めそうな気さえ起こってくる。
 だが、一点だけ違和感があった。
 右上に描かれている建物だ。
 ガラス戸の前に自動販売機が並んでいる。戸の向こうには雑貨が並んでいるのから見ると商店のようだ。たしかに、その辺に商店があれば泥仕事を終えた人たちには便利だろう。看板には、『仲根商店』とある。
 透は首を傾げる。そんな店、風景の中にはないのに。
「なにか用?」
 鋭い声に、現実に引き戻される。
 少女が怯えた様子で、こちらを振り返っていた。
「あ――いや」
 彼女が欄干から落ちるギリギリまで体を退けていたので、慌てて透は一歩下がった。
「ごめん……絵描きなんて珍しかったから」
 欄干の下に大き目のリュックが置いてあることに気づいた。まさか、本当に旅行者だろうか?
「この辺の人じゃ、ないよね?」
「……ナンパ?」
 警戒心をあらわにした声。それに、違和感を覚える。
「そういうわけじゃない。その……俺の友達も絵を描いてたから、懐かしくなってね」
「そうですか」
 吐き捨てるような声だった。
 違和感の正体がわかった。目の前の少女は、顔を青くして、震えてさえいる。だが発せられる声はとげとげしくて、ひたすら強気だ。外見と声のイメージが一致しない。
 怯えと威圧。どちらにせよ、拒絶の表現には違いないが。
「お邪魔したね」
 どうやらただの旅行者らしい。信じられないが。
 立ち去ろう。そう思うが……足踏みしてしまった。
「あれ?」
 何をしにここに来たのか覚えてない。
 目的があって家を出たはずなのだ。しかもこのくそ暑い中に。よほどの急務のはず。思い出そうとするが、暑さのせいか頭の中はかすみにかかったようになっている。
 なんとなくタバコに手をやる。もはや考えるときの癖だ。
 タバコの箱は空だった。一緒に小銭も出てくる。
 思い出した。タバコを買いにきたのだ。
 だがタバコなら街のほうまで行かないと店はない。こっちにあるのはたんぼと川と山だけのはずだ。
 少女が不安げな表情で見あげているのに気づいた。スケッチブックを守るように胸に抱えている。そういえば、彼女の絵の中には商店があった。本当にあの辺にあれば買い出しが楽でよかったのに。
「いや、タバコを買いにきたと思ったんだけど――暑さでボケたかな」
「タバコ?」
 彼女は自分の絵をチラッと見た。
 それからなぜか申し訳なさそうな表情になる。
「ちょっとそれ見せて」
 彼女が手を出してきた。顔は申し訳なさそうなのに、言葉は横柄だった。
「なんで?」
「いいから。悪いようにはしないよ」
 強い言葉に押されるように、タバコを渡した。
 彼女はそれを受け取ると、川のほうを向く。ごそごそと何かをしている。覗き込もうとした瞬間、彼女も振り返ってきた。
 突きつけられた手の上には、タバコの箱がふたつあった。ひとつは俺のやった空箱。もうひとつは中身の詰まった新品の箱。
「持ってた、のか?」
 彼女は透と目を合わせずに、曖昧にうなずく。未成年だろうに。
「くれるのか?」
「まあ……お詫び、みたいなものかな」
「はあ? なんの? んー。でもまあ、もらえるならありがたくもらうけど」
 封を切って、さっそく一本火をつけた。
 煙が喉と肺に染み渡り、全身に広がっていく。指先の毛細血管が縮小して冷ややかな感触が起こった。
 幸せだ。
 透が恍惚勘を満喫してると、彼女は口元を手で押さえて、しかめっ面をした。タバコは苦手らしい。
 あれ? と、透は思った。
 その違和感が形になる前に、少女は欄干を飛び越え橋の上に降り立つ。
 背中を向けて歩き始めた。
「それじゃ、もう会うことはなあぁぁぁ――」
 言葉が尾を引いて消えていく。
 倒れた。
「……おい?」
 うつぶせになって動かない彼女を抱き起こしてみる。意識を失っていた。
 額に手を当ててみる。熱より先に、乾いた感触がまず気になった。そういえば、汗をかいてなかった。脱水症状で失神したのか。
 熱はない。といっても、このまま放っておいたら確実に熱中症で命を落とすだろう。
 治療をせねば。が、携帯電話なんてもちろん圏外。使えないからそもそも持ってさえいない。仮に電話が通じたって、山向こうの病院から救急車がくるまで小一時間はかかる。
「しょうがねぇな」
 タバコを靴底でもみ消し、携帯灰皿に放り込む。
 彼女を背負い、リュックを首にかけた。体もリュックも、意外と軽いのが幸いだった。
 帰路につきながら、ふと思う。
 なぜ彼女は、苦手なはずのタバコを持っていたのだろう。


          二章


 部屋に戻った透は、机の上に置きっぱなしにしていたスケッチブックを手にとる。
 かなりの年代物で、表紙の端など手垢で黒くすすけてささくれ立ってしまっている。それを補強するためにあちこちにセロテープが張り巡らされていた。
 裏表紙の隅には太いマジックで書かれた『17 ITO』の字がある。
 十年前、伊都が最後に使っていたスケッチブックだった。
 中を開くと、見慣れた光景が飛び込んでくる。
 伊都と通った学校の絵。生徒たちがグラウンドで遊んでいる。伊都は絵が趣味なのにも関わらず、運動も得意だった。結局、駆け足で伊都に勝てたことはなかった。
 伊都と荒らしてまわった長山さんちの畑の絵。トウモロコシがおいしかった。たまに盗みがばれて、透だけ怒られた。伊都はいつも先に逃げてるから。でもあとで、お詫びといって大沢さんちのイチゴを両手いっぱいくれたりした。
 次は……透の記憶にはない光景だった。森の中の秘密基地だろう。ヒマワリに囲まれた、ダンボールで作った家が描かれている。入り口からは持ち寄ったぬいぐるみやプラモがはみ出していて、いかにも子供らしい。
 だが実際にそんなものを作った記憶はない。多分、伊都が自分の思いつきで描いた空想の風景だ。そんな絵が、二枚に一枚くらいの割合で混じっている。たとえ空想のものでも、今にも動き出しそうなリアルな存在感はかもし出されているが。
 間を飛ばし、最後のページを見る。
 見開きの左右のページに二人の人物画が描かれていた。
 左は透。
 右が伊都。
 そして伊都は、この絵の中に消えてしまった。
「……伊都」
 出てしまった声は、少し鼻がかっていた。
 いけない。そう思って透は首を振る。
 いまだに、このスケッチブックを見ていると居心地のよい懐かしさと、その反面の、どうしようもない虚しさを感じる。
 自分がいるべきなのは、こちらではない。
 紙の向こう側、伊都がいるほうなのだ。
 伊都は、自分を置いていってしまった。だから、いつかあちら側へ……。
「はぁ」
 ため息を吐いて、考えを止める。
 そんな馬鹿げた考え、繰り返したところで意味がないことはとっくにわかっている。けれど、偽りざる本音なのだ。
 だからかもしれない。大学卒業後、就職活動にも失敗して、田舎に引きこもった生活を送っているのは。
 スケッチブックを机にしまい、部屋を出る。
 縁側に出ると涼しい風が吹き込んできた。風鈴が鳴る。物悲しい高い音がヒグラシの声と混じって、庭の日の中に消えた。もう夕暮れだ。赤い光が無駄に広い庭を染めている。
 伸びた影の中に、橋で倒れた少女が寝ていた。
 頭には氷嚢と氷枕。タオルケット一枚だけかけて、扇風機の弱風を受けている。
 寝顔は穏やかだ。普通に寝ているだけのようで、透は安心する。
 救急車を呼ぶか迷ったのだが、ばーちゃんが強固に反対した。「医者様の手をわずらわせっこどねっ」とか。たしかにひと山越えたところから呼ぶのは気が引けなくもないが、一応人命に関わることだし……と言っても、齢八十を越える大先輩は意見を変えなかった。
 とりあえずは無事でよかった。
「……ん」
 少女が目を開いた。
 透と目を合わせる。
 瞬間、彼女の目に緊張が走るのが見えた。
「ここは?」
 思ったより冷静な声だった。相変わらず声とリアクションにギャップがあるが、気にせず用意していた答えを口にする。
「あんた橋のとこで倒れたんだ。病院が遠くてな。悪いけど、うちの民間療法で対処させてもらたからな」
「別に平気だけど」
 体を起こそうとするが、「う」とかうめいて頭を抑える。
「起ぎたけぇ?」
 ばーちゃんがやってきた。恐るべき長寿者の勘。盆の上には氷とレモン入りの麦茶と、梅干しが盛られた皿が載っていた。
「伊都ちゃんも、絵ぇ描くのはいいげど、ちゃんと水飲まねぇといかんよ」
「伊都?」
 少女は怪訝そうにつぶやくが、ばーちゃんの耳には聞こえなかったらしい。
「ゆっくりしてけや。けぇりは、透に送らせっからよぉ」
「……ありがとうございます」
「透も、遊んでばっかいねーで宿題ぇやっちめぇよ?」
「わかってるよ」
 満足そうにばーちゃんは台所のほうに戻っていく。
「私のこと、誰かと間違えてたみたいだけど?」
「ああ。ばーちゃんちょっとボケてるんだ。俺のこといまだに小学生だと思ってるみたいだしな。生活には支障がないみたいだから、心配しないでいい」
 ふぅん、とつぶやいて彼女は麦茶に口をつけた。
「で、本当のところのあんたはどこのどちら様なんだ?」
「名前は、会(あい)。ただの絵描き――んわっ」
 会が梅干しを食べた瞬間、むせた。ばーちゃん、しょっぱいほうから盛ってきたな。まあ、脱水症状には水以上に塩分やミネラルが必要だというのは現在医学でも証明されている。民間療法も侮りがたい。
 会は一気に麦茶で流し込んだ。透が空のグラスに水差しからさらに麦茶を注いでやると、それも飲み干す。
「すっぱ――。でも、おかげで目が覚めたよ」
 口元をぬぐいながら、会は照れたように笑った。初めて見た笑顔だ。けっこうかわいい。
「こんな村に何しにきたんだ?」
「知人に頼まれて。ここの絵を描いてきてほしいって」
「こんな村を、ねぇ。変わった知人をお持ちで」
 本当に何もない村だ。コンビニまで車で三十分。蛍と星空とおいしい空気くらいしか取り得のない、何の変哲もない集落なのに。旅行者なんて聞いたこともない。もちろん、宿は一軒もない。
「そういや、もうじき日が暮れるが、どこに泊まるつもりだ?」
 会はきょとんとして、庭のほうに視線を移す。
 その先には、青々と茂った山が見えた。
「……わかった。うちに泊まってけ」
「え? だけどそれは……」
「半病人をほっぽりだすのは、さすがに夢見が悪いしな。部屋も余ってるし――なんだ?」
 タオルケットで顔半分を隠している。透と目を合わせると、慌てたように視線を下に向けた。
「いや、男の子に泊まってけ、なんて言われたの初めてなんで」
「なっ」
 言われて、初めて自分が口にしたことの意味を知った。
 途端に顔が熱くなってくる。
「そういう意味じゃ――ていうかばーちゃんいるし!」
「いいよいいよ。大丈夫。君は同じ部屋で女の子が寝てたら襲うどころか、自分が眠れなくて困るタイプだと思うから」
 ケラケラ笑いながら会は言った。
 たしかにそうかもしれないが、真っ向から言われるとけっこう傷つく。ていうか、自分も恥ずかしがりながら他人をからかうとはどういう構造してるんだこの女。
「でも、おばあさんはいいの? いきなり泊まるなんて言っても」
「別に。俺の友達だと思ってるなら、なおさら大丈夫だろ」
「他の家族の人は?」
「親は盆と正月くらいしか帰ってこないよ」
 タオルケットをかぶりながら、じっと見つめてくる。
「な、なんだ?」
「いや、そういえば平日なのになんで家にいるのかなー、って」
「あー……まあ、家事てつ」
「いわゆる、ニート?」
 一瞬、致命的な間があった。
「その、そういえなくもないというかたしかに世の中にはそう呼ぶやつもいるが人をカテゴライズすることは愚かしいというか……つーかあんただって似たようなもんじゃないのか!」
「私は一応、やるべきことがあるからね」
 そう言って、会は控えめな微笑を浮かべた。手では絵を描くジェスチャー
「ま、今日はご厄介になっておくよ」
「へいへい、そうしてくださいな」
「ただし、夜這いはオコトワリだからね?」
 透が反論する前に、言った本人のほうが顔を赤くして、再びタオルケットの中に潜り込んでしまっていた。


 夕食の間も会はよくしゃべった。
「伊都ちゃん、今日はどこさ遊びに行ってだんだ?」
「ちょっと川のほうまでね」
「そうけ。夏休みでいいなぁ。学校いがなくてもいいもんよお?」
「うん。特に透君なんて、毎日が夏休みだからね」
 その様子を見ていて、ひとつ気づいたことがあった。
 物を口に入れながらでも、流暢にしゃべっている。
 それに、口の動きと声が合わないことがある。腹話術で衛星放送の映像を再現した芸を見たことがあるが、それと似ていた。口の動きに遅れて声が聞こえる。
「ん? 透君、いくら私がかわいいからって、そんなに惚れるなよ」
 とか自分で言って、むせてたりした。
 とりあえず、食事も食べたし会の体調は戻ったようだ。
 夕食後、透は風呂の湯を張った。家事手伝いと言える唯一の仕事だ。
 といっても、風呂を洗ってお湯を落とすだけだが。屋根にあるタンクに水をためて、昼の日光で温めておくのだ。この時期だとけっこうな熱さになる。
 それを済ませてから、会を呼びに行く。
 風呂は屋外の小屋にあるので、庭を横切って母屋まで向かう。
 その途中で、淡い光が透の目の前を横切った。
 蛍だ。
 思わず立ち止まり、その光の軌跡を追う。蛍は明滅を繰り返しながら、ふらふらと藪のほうに消えていった。
 どうしても考えてしまうのは、伊都のことだ。出会って一週間目くらいだったか、二人で蛍を見に行ったことがある。
 川沿いを上流に上っていった。泥にはまったり転んですりむいたりしたが、時期を逸したのか肝心の蛍も見つからなかった。やむなく帰ろうとしたが帰り道もわからず、ほとんど真っ暗な山の中で途方に暮れたときがある。
 そこで伊都が蛍を描いたのだ。
 彼女が一匹描くごとに、辺りは少しずつ明るくなっていった。蛍が現れたのだ。
 蛍の淡い光に照らされた伊都の顔は忘れられない。まばたきひとつせずに、紙を見つめる。興奮のせいか口はわずかに笑っていた。ちらりとこちらを見て、今度は、任せとけとばかりに柔らかくほほ笑んだ。
 その日から、彼女こそが透の世界になった。
 思えば、それを取り戻したいのだ。今日、会を家に誘ったのはそういうことだと思う。
 絵を描いている会の姿を見て、伊都と同じモノを感じた。もしかしたら、彼女ならば、望みを叶えてくれるかもしれない。

「とにかく、私はここに泊まるべきだと思ったんだ」
 客間の襖を開けようとしたとき、中から会の声が聞こえてきた。
「伊都さんのことも気になるし、彼のことだって」
 誰かと話しているようにも聞こえる。この村で携帯電話は使えないはずなのに。
「……でも、心配……」
 別の声だった。
「ばれてしまったら、元も子もないから……」
 違う。押さえられた、ぼそぼそとしゃべる声色でわかりづらいが、これはまぎれもなく会の声だ。
「最初の予定通り、彼とは関わらずに全部終わらせたほうが……」
「透よぉ。風呂、伊都ちゃんにいわねえと冷めっちまうぞ?」
 何のことを言っているのか、注意して聞こうとした瞬間、台所のほうからばーちゃんが声をかけてきた。
 同時に、客間の中から息を呑む音が聞こえる。
 ばれた。
 仕方がない。透は、襖を開ける。
 中には、荷物を広げた会が緊張しきった表情でこちらを見あげていた。
 もちろん、ひとりだけだ。
「あー、その、風呂。沸いたから。先に入れば?」
 声をかけると、会は慌てて目をそらす。
 その手には妙なぬいぐるみが握られていた。たくさんの妖怪が登場する国民的アニメに、主人公の父親として目玉に体がついたキャラがいた。彼女が手にしているのは、言ってみれば、それの口バージョンだ。ひし形で作った唇が頭部になっていて、二頭身の大きさで手足がくっついている。ストラップがついていて、首から下げられるようだ。
「ありがとう」
 冷静な声で返答された。本人は、逃げるように立ち上がったが。
 すれ違った瞬間、すぐ後ろで立ち止まる気配がした。
「……ごめんなさい……」
 さっきの別の声がした。
 振り返るが、会は廊下の向こうに姿を消していた。
 言いようがない不安があった。
 一致しない言動と行動。不可解な独り言。そういえば、名前以外何の素性も知らない。
 実はかなり危うい人間なのではなかろうか。
 部屋を見渡すと、リュックが開かれて中身が散らばっていた。
 何冊ものスケッチブック、ノート、メモ帳。何本もの鉛筆。すべて絵描き道具だった。
 着替えや洗面用具の類は見当たらない。そういえば、彼女を担いだときに持ったリュックは大きさに見合わず軽かった。野宿もするだろうに寝袋もなく、旅人というより旅行者並みの軽装だ。
 スケッチブックの一冊を手にとる。泥や汚れがついた、かなり使い込んでいる一冊だ。
「なんだこりゃ」
 中を見て思わずつぶやいてしまった。
 この世のものとは思えない怪物の姿がいくつも描かれている。巨大なクモ、両端が頭のヘビ、角の生えた馬。透は少し薄ら寒さを覚えた。内容そのものは、絵本なんかと変わらないのだが、描かれ方が尋常でなくリアルなのだ。牙からしたたるよだれの粘つきに気づいた瞬間、透はスケッチブックを閉じてしまった。
 なんとなく、ズボンで手をこする。
 次に、いちばん新しい、しわも汚れもついていないスケッチブックを拾い上げた。昼間、会が使っていたものだ。中はほとんど白紙で、最初のページに商店のある風景が描かれていた。
 ふと、これと同じ構図の絵をどこかで見たことがある気がした。
「うーん」
 考えながらスケッチブックをめくっていくと、間に挟まっていた紙切れがひらりと落ちる。
 かなり精巧なタッチで、タバコが一箱描かれていた。
 透が吸っている銘柄。昼間、彼女にもらったものだ。
「……ん?」
 考えていると、何かに呼ばれたような気がした。
 その先には開けっ放しのリュックがある。中に、別のスケッチブックが一冊あった。
 見覚えがある。それは、透が持っている伊都のスケッチブックと同じデザインだった。透のものよりよっぽどくたびれていて、下手に触るとそのままパルプに分解されそうだった。
 慎重にそれを取り出す。
「これは――」
 中には、この村の風景が描かれていた。
 学校に、畑。神社。透の家まである。
 ただ、半分くらいからずっと白紙が続いている。そして最後のページ、透のものでは伊都の姿が描かれている場所に会の絵が描かれていた。
 会の目的はこの村をスケッチすることだと言った。では、もう描き終わっていたのか?
「いや、これは――」
 スケッチがかなり古いことに気づいた。鉛筆の粉が反対側の紙に移って、黒くすすがかって見える。透のスケッチブックも同じことになっていたからわかる。これは、描いてから相当な年月が経っている。
 それに、このタッチ。見覚えがある。これはまるで――
「何、してるの?」
 一気に緊張が走った。
 おそるおそる振り返る。
 顔を蒼白にした会が立っていた。
「いや、これは、その……」
「忘れてた」
「え?」
 会の視線の先。それはスケッチブックを飛び越えて、リュックの中に伸びている。
 その底に、白い下着が押し込まれているのが見えた。
「まあ、いいけど」
 会は散らばっていた荷物をかき集め始める。
「お、おい?」
「短い間だったけど、お世話様」
 出て行くつもりだ。
 こんな現場に遭遇したのだ。無理はない。警察に突き出されないだけまだマシなほうだ。
 だが、透はリュックを取ろうとする会の手を掴んだ。
「あんた、描いた絵を実体化させる力とか、知らないか?」
 会が何かを言う前に、そう切り出した。
 さっき拾ったタバコの描かれた紙を、彼女に突きつける。
 会は無言で、手をリュックから離し、その紙を受け取った。
「俺の友達――伊都もそうだった。頭の中にあるモノの、内側を描くようにすれば実体化させることができる、とか言ってた。でも、結局、あいつ自身が絵の中に行ってしまった。俺を残して、この世界から消えちまった」
 会は何も答えない。無表情で紙を見つめたままだ。
「あんたが来たのは、伊都と関係するんじゃないのか? いや、違う。むしろあんた自身が――」
「ひとつ、頼みがあるわ」
 会が答えた。
 すっと、紙から目を上げる。
 その表情は、ひどく悲しげに見えた。
「明日、村を案内してちょうだい」


          三章


 十年前は毎日通っていた学校は、今は誰もおらずがらんとしていた。
 別に夏休み中だから、というわけではない。透が卒業すると同時に廃校になったのだ。
 無人の教室で遠慮なくタバコをくゆらせながら、透は机に腰かけてスケッチブックを見ていた。家から持ち出したものだ。
 伊都が描いたはずの絵はしかし、それまでの絵とは若干違うタッチで描かれている。この夏休みの課題においては、新しい描写法で描いたらしいのだ。
 モデルとしたモノの内側を見るようにして描いた、らしい。頭の中のモノの内側を描く、絵を実体化させる手法と同じ方法とも言える。
 たしかに、それまでの絵とは違う。写実的なことには変わらないが、鮮明さが増して生々しささえ感じる。
 吸い込まれそうだ。
 会の絵にも、似たような感想を抱いたことを思い出した。
 昨夜見た彼女のものも、これと同じスケッチブックだった。
 このスケッチブックは数年前にデザインが変わってしまった。この村で買える唯一のスケッチブックなので覚えている。つまり、会はそれ以前からあの絵を持っていることになる。
 ふと、思う。そういえばどこであのスケッチブックを買ったのだっか。
「おまたせ」
 会が教室に入ってきた。
 校内を見てまわってくる、といってちょっと前に別れたのだ。
「もう見てきたのか」
「うん。小さな校舎だったからね」
 会は教室を見渡す。一階建ての木造校舎だ。廃校して数年経ったたわりに、綺麗だった。机は整然と並べられ、床にはほこりも落ちていない。新学期から生徒が集まってきてもおかしくなさそうな雰囲気だ。
 会がしかめっ面で天井に吸い込まれる紫煙をにらんでいた。
「タバコなんておいしい?」
「さあな」
「わからないのに吸ってるの?」
「これがないと、落ち着かないからな」
「赤ちゃんのおしゃぶりみたいなものだね」
 そうかもしれない。
 タバコなんて子供が吸うものだ。大多数の喫煙者は、最初は見栄やハッタリで吸い始めて、その中毒性から抜けられずだらだらと吸い続けているだけだ。それが命を縮めることだとわかってはいながら。
 この絵も同じ。毎日、一度は見ないと落ち着かない。
「そういうあんただって、子供っぽいもの持ってるじゃないか」
 会の首から、口のぬいぐるみが下げられていた。
「…………」
 会はちょっと笑って、それを首から外す。透のほうに突きつけてきた。
「な、なんだよ」
 こうしてみると、何の変哲もないぬいぐるみだ。全体が緑色のセンスは疑うが。何かのキャラクター商品だろうか。
 じっと見つめていると、
「わっ!」
「うおっ」
 いきなりすぐ目の前で大声がはじけた。驚いた勢いで、座っていた机から転がり落ちた。
 その姿に会は声を出して笑っていた。
 笑い声が二重に聞こえる。
 ひとつは遠慮のない大笑い。
 もうひとつは、押さえようとしても押さえられないといったくすくすという笑い声。
 もう一度、会はぬいぐるみを近づけてくる。
「今までしゃべってたの、こっちのほうだよ。ほら、本人のほうは、口下手だから」
「は? あ、え?」
 ささやき声は、ぬいぐるみから聞こえた。
「ま、マイク内蔵?」
「ちょっと違うかな。一応、種も仕掛けもないからね」
「どういうことだ?」
「ちょっと前にこういうアヤカシを見かけてね。私の代わりに本音を社交的に言い換えてしゃべってくれるの。便利そうだから実体化させてみたんだ」
「そう、なのか」
 そういうこともできるのか。ほとんど魔法だ。というか、素でアヤカシとか言ってるのを思わず聞き流しそうになってしまった。
 そもそも、描いた絵が実体化するという時点で、現実性など求めるべくもないが。
 ため息を吐く透を傍目に、会は、校舎侵入時に入ってきた窓を開ける。
「さて。次に行こうか」
「やっぱり描かないのか」
 もう十箇所は場所を回っているが、会は一度もペンを握っていない。すべてを記憶してから、あとでまとめて描くらしい。
「ちょっと日が出てきたね」
 会はそうつぶやくと、ジーンズのポケットからメモ帳とペンを取り出し、さらさらと何かを描いた。
 次の瞬間、彼女の手の中に麦藁帽子が現れる。
 ようやく彼女の軽装の理由がわかった。
「ほんとに魔法だな」
 誰というわけでもなくつぶやくと、透はタバコを携帯灰皿に押し込み、彼女の後を追った。


 
 地面に張りめぐった木の根や、かき分けた草を踏みつけながら、透は山道を進んでいた。学校からそのまま裏山に入ったのだ。
 この先に神社がある。伊都とよく遊んだ場所のひとつで、最後に案内するつもりの場所だった。
 これで最後。そう思うと、妙な焦りが生まれた。
 ただ漫然と案内するのが目的ではない。そろそろ、聞きたいことを聞かなければいけなかった。
「あんた、何のためにスケッチしようとしてるんだ?」
 後ろをついてきていた会は飲んでいたペットボトルのフタをしめながら答えた。
「言わなかったっけ?」
「知り合いに頼まれて、ってやつか。でも村の絵ならもう全部描いてあったじゃないか」
 会は一瞬きょとんとして、そしてうつむいた。ちらりと、視線を向けてくる。恨みがましさが宿っていた。
 しまった。なんとなくうやむやにしていたが、昨日荷物を勝手にあさったことを思い出させてしまった。
「やっぱり、見たんだ」
「……悪かった」
「ほんとだよ」
 吐き捨てた声。だが、本人は肩をすくめて笑っていた。
 これは、怒っているのか、それともからかわれているだけだろうか。
「これは私の絵じゃないからね」
「じゃあ誰の?」
「私に絵を頼んだ人。名前は知らない。もうこの世にもいないし。わかりやすく言えば、お母さん、ってやつかな?」
 透は二の句を告げなかった。
 この少女は意外と重い人生を歩んでいるのかもしれない。
「一応ね。あの人が残した痕跡を、集めておかないといけないんだ。今の私は、そのために生きてるようなものだから」
「母親を知るための旅、ってやつか?」
「そんなんじゃないよ」
 会は上を見る。
 生い茂った木の葉の間から木漏れ日が輝いて見えた。
「しいていうなら、義務」
「義務?」
 苦笑しながら、ゆっくりと首を振る。
 訊きすぎたかもしれない。透は少し反省する。
「行こう。この上でいいんだよね」
「あー。それがな」
 別の話題を出してごまかしていたが、そろそろ告白しなくてはいけないかもしれない。
「迷ったかもしれない」
「え?」
 ヒグラシが鳴き始めた。
 物悲しい鳴き声が二人の間に流れる。
「いやまあ、学校の裏山を進めば、でかいお社の神社があるってのは、なんとなく覚えてるんだ。この十年行ってないが、その姿も鮮明に思い出せる。だけど、そこへ行くまでの道がどうしても思い出せなくて。きたら思い出すかもと思ったんだけど……」
 伊都が消えた前後数日の記憶が曖昧だった。断片的には覚えているが、道順とか、変なところの記憶も欠落していたりする。
「はぁ」
 会は深いため息をついた。
「まあ、しかたないか」
「は? 何が?」
「ううん。別に。十年前が原因、ってこと」
 十年も経っていれば忘れるのも当然だ、ということだろうか。
 覚えてないのはよいとしても、方角もよくわからなくなってしまった。
「大きいものだったのはたしかだから、近くにいけばわかると思うんだけど」
 ヒグラシの声が大きくなってくる。気のせいか、薄暗くなってきたように感じる。
「なんなら、出直すか? 帰りに日が出てるかが心配だ」
「いいよ。行こう。日が暮れても、きっと関係なくなってるから」
 何が関係ないのか聞こうとしたとき、不意に視界が開けた。
「あ。ここか――」
 と言いかけて、止めた。
 視界を遮っていた木が途切れて、開けた空間になっていただけだった。
「なんだこれ……」
 十メートル四方くらいに、くりぬかれたように木がなくなっている。その代わりに生い茂った草に、弱くなったが力を感じる夏の日差しが降り注いでいる。
 一歩踏み出すと、そこは一段低くなっている。
 建物か何かあったのだろうか。だが、記憶にない。それでも何かがひっかかった。
「どうしたの?」
 会が森と空間との境目で首を傾げる。
 彼女の横に、ヒマワリがはえていた。
 そこだけではない。四角い空間の一辺に沿うようにヒマワリが数本植えられていた。
 奇妙なのは、いくつかの大輪の花がふたつに切られていることだ。無事なものもなくはないが、ほとんどは円形の花が半分以上欠けている。よく見ると、今まで背の高い草だと思っていたもののなかに、半ばから切られていたヒマワリの茎があることに気づいた。
 半分になっても、ヒマワリは健気に太陽へと花を向けている。
 とてつもない異物感があった。
 それは脊髄から発生し、悪寒となって背中を駆け上り、脳の中をかき乱し、そして封じられていたモノを呼び起こした。
「……あ」
 頭の中で何かが溶けるのを透ははっきりと感じた。
 とっさに肩にかけていたバッグからスケッチブックを取り出し、中を確認する。
「――あった」
 透はスケッチブックを目の高さに上げて、背景とかぶせる。
「やっぱり……」
 会が、隣りから覗き込む。
「見ろよ、ほら。これ、ぴったり合うんだ」
 スケッチブックには森の中の秘密基地が描かれていた。
 絵の端にはヒマワリが描かれている。紙からはみでているので、描かれているのは半分だけだ。
 その描かれるはずだった半分が、景色にある半分のヒマワリとぴったりと合わさる。絵と現実の境界を越えて、円形の花を取り戻していた。
 今なら思い出せる。ここには大きな空洞のある岩があって、それを中心に秘密基地を作ったのだ。ダンボールで周りを補強し、家から持ち寄ったオモチャや二人の宝物を置いていたりした。
 ヒマワリも、透が秘密基地を守る壁として、学校からここに植え替えたものだ。
 絵に描かれていた景色は、実在していなかったわけではない。場所そのもののほうが消えてしまっていたのだ。
 伊都と同じように。
「だけど――なんで――」
 消えてしまったのか。
 十年前のヒマワリがいまだに咲いているのか。しかも、半分に切られた状態にも関わらず、だ。
「ふぅん」
 透の思考を、会のそっけない声が遮った。
 会はつまらなそうに、スケッチブックと現実とで一致したヒマワリの像を見ている。透と目を合わせた。透は興奮で生まれた熱を、彼女の細められた目に奪われていく錯覚を覚えた。
「先に行こう」
 命令とさえ感じるほど、会の口調は強かった。
「ここに、私は用はないから」
「待てよ!」
 思わず反発する。
「たしかに今の俺はあんたの案内をしてる。けど、少しくらい俺の都合を見てくれたっていいだろ」
「多分、もうここは透君にも必要ないよ」
 透は首を傾げる。会がなにを言っているのかわからない。
「だって消えているから。消えたものはいくら追い求めても戻すことはできない。過去を振り返っても何もない。夢みたいなもの。思い出してもつらいだけ。だから、忘れておいたほうがよかったんだよ」
「それって――」
 伊都のことか。
「ふざけるな! そんなわけがあるか!」
「どちらにせよ、もうあまり関係ないかもしれないけどね」
 会は透から視線を外し、先を見る。
 木々の間から、神社の朱色の塗りが見えた。
「案内、ありがとう。もうここまででいいよ。あとは私だけでなんとかなるから」
「……お前、なにをするつもりだ?」
 会は透に向き直る。
 まるで、白紙のように、その表情からは何も読み取れなかった。
「来る?」


          四章


 玉砂利の敷かれた境内に足を踏み入れる。
 十年ぶりに立ち入った神社は、変わっていなかった。
 というよりも、変わってなさすぎた。
 この十年誰も足を踏み入れていないことは、草が生い茂り山の一部になっている鳥居の外の参道を見れば明らかだ。
 それにも関わらず、柱に塗られた朱は鮮やかさを保っており、社殿の中も埃ひとつ落ちていない。社殿の軒から下げられた提灯も、新品同様だ。
 ――同じ。
 ――変わらない。
 廃校になったはずの学校。
 半分になったままでも咲きつづけるヒマワリ。
 わからない。その答えを得るための、決定的な要素が欠けている。
 そして、その要素を持っているはずの人間に透は向き直る。
 会はじっと社殿を見つめている。
「絵馬って、もともと本物の馬を奉納してたんだってね」
 口さえも微動だにさせず、会は言った。
「何のことだ?」
「つまり、絵は実際のものの代替物としても機能する、ということ」
 会が、スケッチブックを取り出す。
 ページを開き、ペンを握る。
 それだけなのに、透はこれまでにないほどの怖気を感じた。
「逆のことも言える。例えば、写真を撮られると魂を吸い取られる、と昔の人は信じていたこととか。合わせ鏡が不吉だと言われていたこともそうかな。自分とあまりにも似すぎている代替物が存在してしまうと、自分自身が脅かされるんだ」
「何の、話だ?」
 会がペンを走らせる。
 神社を描いているのか、記憶の中の風景を描写しているのか、もしくはまったく別のモノを描いているのかは見えない。指揮者がタクトを振るかのように、ペンはよどみなく動きつづける。
 橋の上で描いていた彼女の姿を思い出した。あのときも、同じように一心不乱に絵を描いていた。
 ――あのときは、なにを描いていた?
 商店のある風景だ。だが、そんなところに商店はなかった。彼女の空想だろう。あのときは、そう思った。
 だが、伊都の空想だと思っていた秘密基地は存在していた。絵の中に消えていただけだ。
 だとすれば――。
 透は、視線を会から少しだけそらす。
 軒に下げられた提灯だ。ひとつひとつに、提灯を奉納した村の有志や店の名前が書かれている。
 その中に、『仲根商店』という名前があった。
「待て――」
 透は駆け出そうとする。
 が、その瞬間、会の絵は完成する。それを透に見せた。
 それは神社でも村の風景でもない。箱型に組まれた黒い格子と、その中に閉じ込められた人の姿。
 それが鉄格子の絵だと気づく前に、透は冷たい鉄棒に行く手を阻まれた。
 周囲を見回すが、逃げ道はない。完全に閉じ込められた。
「気づいた、のかな?」
「商店を消したのは、お前だな!」
 会は、うなずいた。
「どうしてわかったの? 大体は、記憶も一緒に消えるはずなのに」
「正直、今も商店があったなんて思い出せない。だけど、秘密基地のことは思い出せたんだ。秘密基地は消えていた――消されていた! だったら、商店だって同じだ。そこに、実在してたって証拠もあるしな」
 透が指差した提灯を見て、「なるほどね」と会はつぶやく。
 スケッチブックのページをめくり、ペンを走らせる。
「村を消すつもりか」
「そうだね」
 絵を描きつづけながら、会は冷静な声で答える。顔も、感情を殺した無表情だった。
「なんでだよ」
「しいて言うなら、君のためかな」
「ふざけるな!」
 鉄格子を握った手に力を込めるが、軋む音すら鳴らなかった。
「嘘じゃない。伊都さんだって、それを望んでる」
「い――」
 透は叫んだ。
 鉄格子に顔を押し付け、会に向かって全身から声を絞り出す。
 すべての息を使い切って、透は、初めて気づいた。
 自分の発したのは怒声ではない。
「……は、っはは……」
 笑い声だった。
 口元は緩みきり、腹も痙攣したように震えて息が吸えない。ひゃっくりのような声で、透は尋ねた。
「……伊都を絵の中に封じたのも、お前か?」
 会が、うなずく。
 つっと。透の頬に涙が走った。
「なら、俺も絵に封じろよ」
 それは、この十年の願いだった。
「村を消すんだろ。まず俺を消せよ。いいだろ。どうせ数分の違いだろ。でも俺はそれが惜しいんだ。十年も待ったんだ、もう一秒だって待ちたくない。頼むよ、消してくれよ。伊都のところに連れて行ってくれよ。会わせてくれよ。もう嫌なんだ。伊都のいないこっち側は。なあ、早く俺を描いてくれよ」
「なぜそんなに会いたいの?」
「だって俺は、伊都に生み出されたんだからな」
 震えた声は、笑い声か泣き声か、わからなくなっていた。
「俺が生きていたのは伊都といた一年だけだった。それより前も後も俺は死んでいないだけだった。伊都がいなけりゃ意味がないんだ。ダメなんだ。だから俺を――」
 会が透をにらみつける。
「単にそれは透君が彼女に――」
「わかりました」
 会の声を遮ったのは、会の声だった。
 会の手が、首から下げられたぬいぐるみを握りしめていた。
 彼女はその口で、直接言葉をつむぐ。
「あなたを描きます」
 会のペンが動いた。



 白しか見えなくなっていた。
 空も地面もない。奇妙な浮遊感。重力もないのだろう。空気も感じない。そもそも呼吸をしている実感がない。しかし苦しみもない。手も足も見えないし、まばたきさえもできない。体ごと消えてしまって、白と化してしまったようだ。
 最後の記憶は、透を描くという会の宣言だった。
 ということは、絵に封じられてしまったのか。
 これが、絵の世界。何もない真っ白な空間。
 伊都なんてどこにもいない。
 だけど、それは向こう側でも同じことだ。伊都以外のものがあろうとなかろうと、さして変わりはない。
 白い景色を見ているうちに、意識さえも白くなっていく気がした。
 記憶が曖昧になっていく。村のことがだんだんと消えていくのがわかった。外では会が絵を描いているのだろうか……会、とは誰だったか? 外? 外とは、何のことだろうか?
 伊都しかいない。
 しかし、伊都と何をしたのだったか。どこでどんなことをしたのか。
 思い出せない。
「――――」
 何かを叫ぼうとした。
 かすみ始めた意識の底に何かがうねった。
 それが恐怖という感情だということを思い出した。
 恐怖している。伊都が――今ではその容姿さえ思い出せなくなってしまった少女の記憶を失うことに。
 自分の記憶なんて、どうでもいい。しかし伊都が消えることはいけない。
 だが、同じことなのだ。
 自分が消えることは、伊都が消えることだ。伊都を覚えている人間が消えるということだから。
 ダメだ。
 消えてはいけない。
 もはや自分が誰かも忘れてしまった彼は、とにかくイトという人のことを考えた。イト、イト、わからない、けど大切なモノ、イト、イト……
 イト――
「封じるといっても、それは別の世界に行くことでも、どこかで眠りつづけるわけでもありません。それは死ぬことと、ほとんど同じです」
 それに反応するすべを彼は持っていなかった。
「人々の記憶からも消えてしまう、という意味では完全な死ともいえます。だから、伊都さんはもう戻ってこないんです。透さんが封じられたとしても、彼女のところにいけるわけじゃないんです」
 白の中に、何かが現れた。それは、人と呼ばれる存在であることを彼は思い出した。そして、会という名前だということも思い出した。
 会は、手にしたスケッチブックに横に一本ペンを引く。
 大地が生まれた。
 同時に天空が生まれた。
 空間は世界に接続された。理が復活し、重力が生まれ、大気が生まれ、そして透の体もそこに存在を定義されなおした。
 地面に落ちる衝撃を尻に受けて、透は我に返る。
「こ、ここは――」
 まだ覚醒しきれていない意識で、周囲を見渡す。夜。月明かりで、森の中に何もない地面が五十メートル四方ばかり広がっていることだけがわかる。
 傾きかけた鳥居を見て、わかった。ここは神社があった場所だ。
「あなたを絵に封じたわけではありません。神社を封じて、あなたも一時的にですがあちら側に送ったのです」
 会が言う。
 数秒考えてから、自分が絵の世界を疑似体験していたということに気づいた。
「村を封じ――殺したのか?」
 透が言いかえたにも関わらず、会はうなずいた。
 透は村のことを思い出そうとする。が、なかなか思い出せない。まず思い出せたのは、自分の家のことだ。そして、ばーちゃんのこと。多少ボケてはいたが、いつも透のことを気にかけてくれていた。
 そのばーちゃんはもうこの世界にはいない。
 本当にすべてが消えた。伊都と会う期待も、帰ることができる村も。
 会はまだスケッチブックに何かを描いている。
 透から奪おうとしている。
「――テメエ――」
 気がついたら会に掴みかかろうとしていた。
 だが、足がもつれて体勢を崩す。とっさに伸ばした手が何かを掴んだ。
 抜き身の日本刀の柄だった。
 会を見る。ちょうど絵を描き終えたところらしかった。透と目を合わせると、小さくうなずいた。
 透は刀を握りなおす。重い。人を殺す目的を追求しきった道具だ。たとえ斬れなくたって、女の頭ひとつ潰すだけの威力は十分に期待できる。
 それを大きく振りかぶり、無防備な会の頭に狙いさだめる。振り下ろした。
「……私を殺しても法で裁かれることはありません。戸籍とかはないですし。死体も見つからない。ここはもうただの山奥になってしまいましたから」
「……聞いてない話がまだある」
 刀は、会の体からは外れ、地面に叩き落されていた。
 食い込んだ刃を地面から引き抜き、透は尋ねる。
「なぜ村を封じた? いや、違うか」
 会は言った。母親が描いた絵を再び描きにきた、と。
 透は言い直す。
「なぜ伊都は、自分で封じてしまった村をもう一度実体化させたんだ?」
 会は目を見開く。驚いたようだ。
「なんで、それを?」
「伊都は言っていた。夏休みの課題は、新しい方法で描いた、と。実際のモノを内側から描くようにするっていう、絵を実体化させるときとは逆の方法だ。あんたも言ってただろ、実物と似すぎた存在は実物を脅かすって。だから、伊都はあの課題を描くことで村を封じてしまった。
 だけど、伊都は消した村をもう一度生み出した。ただし一部だけ。だから、俺の持っている伊都のスケッチブックには俺が知らない――というか忘れてしまった景色が描かれている。もともとは村に存在していたが、消されたまま、実体化もされなかった景色だ。秘密基地みたいにな。
 だけど、なぜ伊都はそんなことをした? 自分のやったことをごまかすためか? だけど、伊都はそんな無責任なことをしないはずだ」
「そう、です。伊都さんはそんなことはしない。むしろ責任感が強すぎたくらい――」
「どういうことだ?」
 会は答えない。何かをためらうように、うつむいた。
「いいよ、私が答えるよ」
 答えたのは、胸のぬいぐるみだった。
「会も、やめたほうがいいよ。彼に殺されて手仕舞いにしようなんて。それに、最初から彼には教えるつもりだったでしょ?」
 会は、うなずく。
「悪いね。この子も大変だったんだ。十年前、生まれたときに課せられた使命を果たしてしまったんだからね」
「……あんた、やっぱり伊都に生み出されたのか」
「うん」
 会の持っていた伊都のスケッチブック――伊都が村を再び生み出したときに使ったもの、正真正銘伊都の遺作だろう――の最後のページに、会の絵が描かれていた。
「伊都さんは、ふたつのことを託すためにこの子を生み出した。ひとつは、伊都さん自身を消すこと。もうひとつは、伊都さんが再生させた村を十年後にまた消すこと」
 その願いとともに、伊都からスケッチブックを渡されたのだろう。
「質問に答えるよ。伊都さんは、透君のために村を再び生み出したんだよ」
「俺の?」
「透君は幼かった。村は透君の短い人生と密接に絡んでいて、その消失は深刻な記憶の混濁を生み出した。自分が誰かわからなくなるほどのね。また、生活基盤を失って社会で生活するのは無理だったし。だから、あなたが大人になって自活できるまで、伊都さんは村を残そうと思ったんだ」
 だから秘密基地は戻さなかったのか。大人になるために、必要のないものだから。この村そのものが、伊都のメッセージだったのだ。
 ならば、自分は伊都の望むような大人になれているのだろうか。
「なんで……わざわざ消したんだ? そのまま放っておいたって」
「絵によって実体化したものは、半永久的に存在しつづけるの。そのままの状態でね。透君のおばあちゃんが、いつまでもあなたを小学生だと思ってるように。半分になったヒマワリが咲きつづけるのも、誰もこない神社が朽ちることなくありつづけているのも、それがもとは絵だから。世の理に反するものだから。だからいつか、不協和を生み出す。その前に、消さなければいけないの」
「だからって――」
「伊都さんが自分を消してほしいと望んだのも、透君のため。伊都さんは自分のしたことを悔やんだ。世の理に反する自分の力を恐ろしいと思った。だから死のうと思った。けど、ただ死んだだけでは、あなたを悲しませることになる。だから、あなたの中から自分自身の記憶さえ消そうと思った。結果としては、あなたは覚えていてしまったけれどね。
 驚いた。あなたがまだ村にいたことは可能性としては考えたけど、伊都さんのことを覚えているとは思わなかった。その上、彼女の影を求めていた。だから、私はあなたに見せつけることにした。モノを消す能力と、伊都さんの願いを」
 もう透は何もいえなくなっていた。
 その手から刀が滑り落ち、地面に突き刺さる。
「……くそ……」
 地面に膝をつく。拳を地面に叩きつけた。
 手がすっと伸びて、刀の柄にかかる。
「……安心して、いいです。あなたは絵じゃないから。先に進むことができます……」
 つぶやくような声。
 顔を上げると、会が刀の刃を自分の首筋にあてがっていた。
 言葉より先に体が反応した。
 会が刃を引く前に、彼女に飛びかかる。腕を押さえ、刀を奪おうとする。体勢を崩し、そのままもみ合うようにして、二人は地面に転がった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 透は地面に転がりながら、奪い取った刀を遠くに投げ捨てた。
「なんで、止めるんですか?」
 隣りに倒れたまま、透と同じく息を荒げた会が訊いてきた。
「じゃあ、お前はなんで死のうとするんだよ」
「そんなの……私が絵だからです。村と同じだからです。本来、この世界にあってはならないもの。いてはならない存在です。しかも、自在に存在を生み出し、消し去る力を持っている。目的を達した今、一刻も早く消えるべきなんです」
 ぬいぐるみの言葉を思い出す。彼に殺されて手仕舞いにしようなんて。
「ふざけるな」
 起き上がろうとして地面に手をつくが、ぬかるんだ何かに滑り失敗する。再び顔から地面に落ちた。べちゃ、という嫌な水気の音がした。
 血が出てるらしい。
 ちっ、と小さく舌打ちをしたつもりだったが、何の音もしない。もう口を動かす体力も残っていないらしい。
「あんたの描いた絵の中に、化け物の描かれたものがあった。あれ、なんだ? あんた、この十年でああいう連中を消してまわってたんじゃないのか? 立派に役に立ってんじゃないか」
「でも、私も、結局はあのアヤカシたちと同じ、本来はいるべきでないモノで……」
「俺は、あの真っ白の世界で思った。伊都はまだ完全には消えちゃいない。伊都が残してくれた、俺がいるから。俺が覚えている限り、伊都は消えない。絶対に消しちゃいけない。だから、あんたも消えたらダメだ。あんたは伊都のことを知ってる世界で二人しかいない人間の片割れだからな」
「……人間……」
 会は小さくつぶやくが、すぐに言い直した。
「そんなの、あなたの理由じゃないですか」
「そうだ。俺の理由だ。だけどあんただって、俺とおなじことを思ってたんじゃないか? なんで俺にわざわざ案内させたんだ? 俺に伊都の意志を伝えたかったんだろ。伊都の存在を、この世に残すために。だったら、最後まで付き合えよ」
「……ずるい」
「なんとでも言え。まあ、それとは別にもうひとつ、頼みがあるんだ」
 起き上がった会は、透の姿を見て息を呑んだ。
 ようやく気づいたらしい。
 彼の口はさっきから動いていない。どくどくと流れる血の中で、虚ろに目を開いたまま細い呼吸だけをしていた。
 代わりにしゃべっていたのは、もみ合ったときに彼の手がつかんでしまった、口のぬいぐるみのほうだった。
「ちょっと病院まで、頼めないか?」


          エピローグ


 白い天井が見えた。
 よく見れば染みや黄ばみ、それに壁紙の継ぎ目なんかが見えて、それが本当の白ではないことに気づく。それが安心できた。
 まだ自分はあちら側には行っていないらしい。
 視線を横に向けると、椅子に座って会が座っていた。頭に包帯を巻き、頬には絆創膏を張っている。唇を尖らせながら、リンゴを剥いていた。
 すぐに、目覚めた透に気づいた。
「……起きましたか」
 少しむっとしたように、切ったリンゴを皿に並べた。
「心配しないでください。絵じゃなくて、店で買ったものですから」
「ついててくれたんだ」
「……あなたが頼んだんじゃないですか……」
 小さくつぶやくのを見て、気づいた。彼女は自分の口でしゃべっている。
「あれなら、捨てました。あなたの血で汚れてたし、別にあなたとしゃべるだけなら、普通にしゃべれますし。それに普通の人はああいうものでしゃべったりしませんから」
「そっか。そのほうがいいかもな」
「自分でしゃべると、疲れます」
 会は立ち上がり、窓のカーテンを開く。
 青空。今日も一段と澄んでいる。
「あなたが寝てる間、ずっと考えてました。なんであなたが伊都さんのことを忘れなかったか。それで、ひとつ気づいたんです。忘れない以前に、もっとおかしいことがあったって」
 会はベッドの横からスケッチブックをとった。透のもので、伊都が村を消してしまったときに用いたものとも言えた。今は血と泥で汚れて、ぼろ雑巾みたいになっている。
「……すいません。これだけは持ってこようとしたんですけど、こんなことになってしまって……」
 そういえば彼女の荷物がない。透の体を引きずるので精一杯で、他の荷物は捨ててきたのだろう。
「いや、もういいよ」
 それはただの亡き骸だ。伊都が望んでいたことが透の成長ならば、亡き骸にすがりつくのはもうやめるべきだった。
「それで、おかしいことって?」
 会がその最後のページをめくった。泥水が浸食して半分くらい潰れているが、そこには伊都の絵と、そして透の絵があった。
「これ、実は伊都さんはあなたを描いてるんですよ。あなたは、伊都さんに描かれても消えていなかったんです」
「そういえば、たしかに……」
「例えば自分自身を描いても消えることはできません。伊都さんがわざわざ私を作って消させたくらいですから。人間、自分自身を完全に客観的に見ることなんてできないんです。だから自画像で消すことはできない」
「じゃあ、俺が消えなかったってのは?」
「同じように、正確に描けなかったんです。感情が筆を鈍らせた、とも言えるかもしれません。簡単に言えば――好きだったんですよ。伊都さんはあなたのことが。本当に。その姿を正確に写し取ることができないくらいに」
 透は言葉を失う。いきなりなにを言い出すんだ。
「そして同じくらい、あなたも伊都さんを好きだった。だから、記憶も消えなかった……と。まあ、私の予想ですけど」
 よくしゃべる。あのぬいぐるみは本音を語るものだと言っていた。となると、彼女は本来おしゃべりなのかもしれない。
 会は立ち上がる。
「どこ行くんだ?」
「大丈夫。もう死のうだなんて思ってません」
 少し笑う。たしかに死のうとしている者の笑い方ではなかった。
「あなたが死にそうになったとき、私、本当に無力だったんです。私の力じゃ包帯やガーゼは生み出せても、傷そのものをふさぐことはできませんし。あなたを抱えて山を越えることしかできなかった。本当、死にそうになるくらい疲れました」
 彼女の腕や足にも包帯が巻かれている。その際に傷つけたのか。
「でも、なんか安心できたんです」
「安心?」
「あなたも言ったじゃないですか。私も、人間だって。なんか、それが信じられる気がしたんです。絵がちょっとうまく描けるだけの、ただの人間。
 あなたには信じられないかもしれませんが、私、すごく絶望してたんです。生み出された意味が、自分の母親とあの村を殺すこと、だけなんですから。しかも、母親が忌避した力を自分も持っている。自分はこの世界には存在してはいけないモノだ。でも、十年後に村を消すという目的があるから、死ぬことなんかできない。
 だから、私はうれしいんです。伊都さんのことを覚えているっていう、新しい目的ができた。あなたは、それを与えてくれた。ありがとうございます」
「礼を言いたいのはこっちのほうだ」
「……そうですね。お互い、がんばりましょう」
 透も、会もうなずき合う。
「それじゃ、私は失礼します。タバコはやめたほうがいいですよ」
 もう吸わないよ。答える前に、会はあっさりと病室を出て行った。
 消えたわけじゃない。
 またどこかで会える。
 同じ少女を知る女の子は、この世界のどこかでがんばっているはず。そう思うだけで、自分も負けていられないと思えた。
「静か、だな」
 透は窓の外の空を見あげる。
 山のように巨大な入道雲を見ていたら、ふいに蛍のことを思い出した。伊都が最初に生み出した蛍だ。
 会は蛍のことは知らなかった。伊都の残したスケッチブックでしか、彼女の描いたものを知らないはずだ。
 あの蛍は永遠に生き続けるのだろうか。
 今はもう何もなくなってしまった山奥。透さえも、もうどうやってあそこに戻ればいいか覚えていない。
 その村があった場所で、いつまでも、秋も春も冬も、今だって蛍は光りつづけているのだろう。

                        了